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聖ジェンマ・ガルガニおとめ      St. Gemma Galgani V.       記念日 4月 10日



 ジェンマと呼ばれる聖なる婦人が二人ある。共にイタリアの人であるが、一人は始め羊飼いで後に隠遁生活を営み、1429年5月12日帰天したスルモナの聖女、もう一人は本日記念されるジェンマ・ガルガニで1933年5月14日ピオ11世教皇に列福され、1940年5月2日ピオ12世教皇に列聖された20世紀の新聖者である。

 このジェンマ・ガルガニは1878年3月18日、イタリアはカミリアノに生まれ、ほとんど一生を隣町であるルッカ市で送った。父は多忙な薬剤師で、子の教育を顧みる暇もなかったから、幼いジェンマは、虚弱で常に病床にあった母の枕べにおいてさまざまの事を学ぶより仕方がなかった。その頃彼女にとって最も楽しかったのは、病める母に教えられて、共に天主に祈りを捧げる事であったという。

 その母が死んでからは童貞経営の学校に入り、一般の学問や宗教上の事などを習ったが、彼女が如何に優れた敬虔の徳を持っていたかは、当時において珍しい僅か9歳の幼年で、初聖体の拝領を許された事によっても知られるであろう。
 彼女が16歳を迎えた時、その一身上には大いなる変動が起こった。というのは兄のジノが死に、間もなく父が失職し、続いてこの世を去ったからである。かくてジェンマは若くして一家の家政を摂る事になった所、自分もやがて脊髄瘻を患い、身体の自由を失い、一年間も臥床のやむなきに至った。その間度々手術も行った。が、その際彼女はいつも麻酔剤を拒んで一切の苦痛をイエズスの御苦難に合わせ、天父に献げたとの事である。何しろ難病の事故さまざまの治療にも拘わらず、一向快復の曙光も見えなかったけれど、篤信のジェンマは当時福者、今は聖人の列に挙げられたガブリエル・ポッセンティとマルガリタ・マリア・アラコックとの取り次ぎを求めて、熱心に祈った所、不思議にも全快の恵みを得る事が出来た。漸くにして病苦を逃れたものの、ジェンマは主イエズスの御苦難を黙想しては名状し難い同情を感じ、主を慰め奉る為に毎日御聖体を拝領し又人知れず日々の務めを完全に果たそうと努力した。それから彼女は修道院に入る事をこいねがったが、何分大病を患った事とて、健康不十分の理由ですぐには入院を許可されず、その後ジアニーニ家の養女となって行った。しかし養女とは名ばかりで、実は無給の女中同様こき使われたのである。

 その内に1899年を迎えたが、その年の聖週間に彼女が御聖体の尊前で祈っていると聖主が鮮血淋漓たる御有様で彼女に現れ給うた。またその聖心の祝日には聖母マリアが現れ給い、痛悔の祈りをとなえよと命ぜられたのでその通りにすると、ジェンマは突然脱魂状態に陥り傷痕鮮やかなイエズスの御姿を拝したがやがて我が身からも血潮が滴り痛みを感じ、主と同一の聖痕を受けた。後彼女は聴罪司祭の命令に従って主にその聖痕を消し給わん事を願った所、祈りは直ちに聴かれたが、ただその痛みだけはいつまでも残っていたという。天主はかような聖痕を与えて、彼女がイエズスにあやかる霊魂である事を証明し給うたのである。

 なおジェンマは自分の守護の天使を見、その指導を受けたこともしばしばあった。そして彼女は憐れな罪人の改心の為祈る事に最も努め、度々特定の罪人を目指して祈りと苦行を献げ、又その救いの為悪魔と闘い、多大の効果をおさめた。
 かような聖い生活がいつまでも世に知られぬ筈はない、いつか彼女の評判は近在近郷に響き渡った。謙遜な彼女はそれを心憂い事に思い、出来るならば修道院に身を隠したいと、再び入院方を願い出た。しかしまだその回答に接しない内に、彼女は腸閉塞症に罹って1903年4月11日25歳を一期として永き眠りについた。

教訓

 聖ジェンマ・ガルガニは近代に於いて聖痕を受けた一人である。天主がある聖人方にかかる特別な恵みを与え給うのは何故かと言えば(1)その聖人の生活が主キリストのそれに酷似している事(2)従ってキリストにあやからんとする世の人々は、その聖人に倣うべき事、この二点を示し給うものと考えられる。即ちかような聖痕を有する聖人は「我がキリストに従いし如く、汝等も我に従え!」(コリント前書 4−16)という聖パウロの言葉を、その身に現しているものと見て良いのである。